久留米大学医学部 放射線医学教室

早渕名誉教授の思い出

第7回 ホジキンリンパ腫の患者さんのこと

ホジキンリンパ腫は20歳から30歳をピークに比較的若い患者さんが多く、その5年生存率は最近では90%を超えている。よく治る悪性腫瘍の代表的な疾患である。しかし、若い患者さんが多いということは、合併症を起こさないようにしないと、感謝されるどころか、逆に患者さんから恨まれ、場合によっては「私の体に障害がおきたのは、治療を行った医者のミスだ。合併症を起こしたのだから、損害賠償と慰謝料を支払え」として訴えられかねないということである。事実、東京都内の某有名私立大学で15年前の20歳代の時に治療を受けたホジキンリンパ腫の患者さんから、どこで調べたのか突然私の許に「左手がしびれて使えなくなったのは、当時うけた放射線治療のせいであるから、訴訟を起こそうと思っている。ついては専門的な立場からコメントをお願いしたい」という手紙を当時の詳しい資料と共に頂いたことがある。訴訟に関係する場合の医師のコメントは慎重であらねばならない。この場合も生検(というより、かなり大きな摘出手術だったようだ)、抗がん剤治療、放射線治療のすべてが関係している可能性がある旨の返事を書くしかなかった。

疫学的にはホジキンリンパ腫は欧米に多く、悪性リンパ腫の中に占める割合は非ホジキンリンパ腫と同じ程度である。日本では比較的少なく、悪性リンパ腫の中に占める割合はわずか5%程度であり、95%は非ホジキンリンパ腫である。ホジキンリンパ腫の原因は他の大部分の悪性腫瘍と同じく、不明であるが、比較的教育レベルの高い母親や経済的に余裕のある家庭の子供に多く、長男(長女)が多いという。欧米から発表された疫学関係の論文には日本でホジキンリンパ腫が少ない理由を、日本は人口密度が高く母親が子供を他の一般人の子供と隔離できないことをあげて、幼少の頃に当然感染するはずのウイルスに感染しないことが後にホジキンリンパ腫を発症する原因の一つにあげている位である。

私が放射線科に入局して4年後、放射線治療を専門に選んだ35年程前は、ホジキンリンパ腫の5年生存率はわずか30%程度であった。現在では想像もできない、つらい思い出が多いその頃のホジキンリンパ腫の患者さんを4人ほど紹介したい。

その第1例目は当時25歳の九大工学部の大学院の男子学生であった。それまでにすでに何回も寛解と再燃を繰り返していた患者さんである。私が担当したのはその最後の入院の時であった。型通り、長男(但し、姉がいた)であった。Terminal な状態で、私にはなすすべもなく、すぐに亡くなられた。当時はCTもMRIもなく、現在よりももっと剖検の重要性が高い時である。私は卒業して医師になって以来、自分が受け持った患者さんは多少無理があっても剖検をお願いすることにしていた。おおかたは遺族から気持ちよくご了承をいただいていたが、中には渋る方も当然あった。それでも医学の進歩のため、お願いしますと説得を重ねて、全て剖検をご了承いただいていた。しかし、当時25歳のこの男子学生の場合、その姉から年老いたご両親がその息子にどれほど期待をかけていたのか、そしてそれがこのように若くて自分たちより早く亡くなったということでどれほどショックをうけているのかを理解してほしい、少しでも早く家に連れて帰りたい、と言われて、それ以上の剖検の説得を諦めたケースである。医師になって10数例後に初めて剖検を諦めたケースであった。

その第2例目は当時38歳の男性である。というより、私が医学部在学中から大変お世話になった先輩の医師であった。九大の第2内科で研究をされていたが、研究者たる者はノーベル賞を目指して仕事をしなければならないというのが口癖であった。快活な明るい先生で私たち後輩をいつも励ましてくださっていた。私はまだ若くて、自分が直接治療した訳ではなかったが、幸い治療は奏功をした。しかし、それから間もなく、急性肝不全でなくなられた。ホジキンリンパ腫の治療との因果関係は不明であるが、少なくともホジキンリンパ腫を発症しなければ、あれほど若くて亡くなられることはなかったに違いない。ご自宅にお線香をあげにご挨拶に行った時の、途中の寒い夜道が忘れられない。

その第3例目は医学部の同級生である。大学卒業後間もなく臨床から基礎研究に移って結婚もして、公私ともにまさに油がのった時に発症した。彼の研究は高く評価されていたと聞く。彼も数年にわたって、再燃と寛解を繰り返していた。教室の先輩の先生が治療を担当されていた。再燃と寛解を繰り返していたせいであろうが、これまでの治療に対する不満を私にすることがあった。結局、彼も亡くなったが、そのせいであろうか、奥様はそれからしばらくして長崎大学医学部に入学され、医師になられたと聞いている。

最後は結婚前の20歳代前半の美人の女性の患者さんである。美人だからという訳だけではないが、この方だけは明るい思い出である。この方は私が直接治療した。幸い治療が奏功して、その後も再燃なく過ごされている。治療が終わってしばらくして、「結婚してもよいですか」と聞かれた。前の3人のような不幸な転機を知っていたので、すなおに「いいですよ」とは言えなかった。「治療後3年再発がなかったら」と言った。フィアンセは辛抱強く待ってくれて、結局3年して結婚されたのだが、今度は「すぐ子供を生んでよいですか」と聞かれた。「治療後5年再発がなかったら」と話したが、約束通り5年たってから無事に子供を出産された。その後彼女は大阪に住むことになって、直接診察はしていないが、年賀状だけはやりとりしている。私は九大から佐賀医大(当時)、そして久留米大学に移ったので、この方だけでなく、直接診察できない方からは、年賀状でその後の経過を教えてもらっている。九大時代に治療して25年以上たった今でも当時治療した多くのリンパ腫の方から年賀状をいただいて、その後の無事を喜んでいる。彼女の最近の賀状には治療後5年後に生まれたその子供が、「大学を卒業して、母親業からも卒業できました」と書いてあった。

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