第4回 山ヶ野:西国三大遊郭
山ヶ野。詳しくは鹿児島県姶良郡横川町(合併して現在は霧島市)の山ヶ野である。わが早渕家の墓があり、私のかつての本籍地(現在は福岡市に移した)であり、祖母が伯母(父の姉)とその娘4人(私にとっては従姉妹)と一緒に住んでいたところである。そして、教室の服部睦行先生のお父上の出身地でもある。私はそこに住んだことはなかったが、学校の夏休みや冬休みには家族と共にいつも帰省していた。鹿児島県内とはいえ、霧島連山の麓に位置する名前の通りの山の中で、夏でも涼しく夕暮れ時になると「ひぐらし」のカナカナカナという鳴き声が響く絶好の避暑の地である。逆に冬は底冷えがする。暖房は囲炉裏(いろり)しかなく、しかも囲炉裏は薪を使うので、煙を逃すために田舎の家は茅葺きで天井が高くて少しも温まらない。しかし、自在鉤にかかった鉄瓶にお湯が涌いている囲炉裏の周りを皆で囲むのは心なごむ風景であった。夜(と言っても田舎では早く寝床に入るのが当たり前)分厚い蒲団を何枚も重ねて寝ていると、近くを流れる渓流の音が静かに聞こえていた。
山ヶ野はかつて金山で栄えたところである。その歴史は江戸時代(1640年)に金が発見されたところまで溯る。一時期は佐渡金山をしのぐ日本最大の産金量を誇り、日本の二大金山であった。最盛期には2万もの人が働いたというが、次第に産金量が減り、ついに戦後の1965年に閉山した。この地にあった田町遊廓は「西国三大遊郭」の一つに数えられていた。また、湊町千軒跡(湊町出身者が多く住んだところ?)、御座所跡(藩主が来山した折りに宿泊したところ)、金山奉行所跡、千石坑跡など、残っている遺跡の名前からもかつての繁栄が偲ばれる。早渕家の先祖の名前も金山の資料の中に金山役人(技術者?)として現れている。
山ヶ野には早渕姓が多い。祖母の家は「焼酎屋」(酒屋)の早渕であり、隣家は「油屋」の早渕である。家にはまだ商売用の大きな甕(かめ)が、いくつも土間に転がっていたので、往時には大きな商店としてなり立っていたのではないだろうか。
私は1947年の団塊の世代の生まれであるから、太平洋戦争が終わって2年、まだ何もない時代に生まれたことになる。都会は食糧難であり、山ヶ野にも疎開してきた人たちが多かったのであろう。同じ年回りのこどもたちが大勢いて、鬼ごっこや水泳(プ-ルなどなく、川の瀬で泳ぐ)の仲間に加えてもらっていた。
ラサ-ル中学に入ってからも、徳之島まで簡単には帰れないことから、山ヶ野の祖母の家に1人でよく行っていた。鹿児島から肥薩線の大隈横川駅までは列車(小さい頃はSL、小学校高学年の頃からはディ-ゼル車)に乗る。駅前からバスに乗り換え、峠の茶屋(山ヶ野金山郵便局前)で降りると、「夕もや」に包まれた山ヶ野の集落が天降川(あもりがわ)に沿って広がっているのが、木々を通して眼下に見える。あちらこちらの家から白い煙が上がっていたのは、夕餉の用意や風呂を沸かすためのものであったに違いない。祖父と馬車に乗った幼時の記憶があるのは、バスさえ走っていなかった太平洋戦争後の時期に大隈横川駅から山ヶ野までの間のことだったのであろう。
次第に食糧難が解消され、人々が都会に出ていくようになると、急速に過疎化がすすみ、いつの間にか山ヶ野小学校が廃校になり、いよいよ過疎化は進行していった。今、父や母、そして妹たちが眠る早渕家の墓参りに行くと、たまにお年寄りに出会う位で、子どもたちの姿を見ることはない。墓地の入口を流れる小川に天降川起点の標識が立ち、螢が乱舞する場所とも書かれているが。
因みに母の実家はそこから峠を1つ超えて、歩いて一時間程の白仁田(しらんた)というところである。道の途中には宮之城第4代領主の島津久道が夢のお告げで金鉱を発見したという無想谷や、その島津久道(徳源公)の遺徳を偲んで祀った徳源社という神社がある。春と秋の2回行われていた祭りは地区最大のものであったという。母の実家も金山に深い関係があったらしい。鹿児島の金山は佐渡金山のような幕府直轄ではなく、金の採掘は薩摩藩と自稼請負制の2本立てであった。松本清張の小説「佐渡流人行」などに出てくるような江戸の罪人を奴隷のように扱って掘りだす佐渡金山とは様子がかなり違っていたようだ。
自稼請負制とは晒し鉱を露天掘りで掘り、叩き砕いて小さくし、それをさらに挽いて砂状に製錬した金を作って役所に納め、その金の品位と量によって代金をもらうシステムである。母の実家には鉱石を砕くのに使用した水車の跡が残っていた。また、囲炉裏の四方を囲む木枠である炉縁(ろぶち)には融かした金を置いた時にできたという大小のまるい穴がいくつもあいていた。
2011年12月初旬、中学からの友人のI君と墓参りを兼ねて山ヶ野を訪れる機会があった。12月にしては珍しくよく晴れて風のない暖かな日であった。田町遊廓跡と言っても田圃の脇に案内板があるだけの場所や御座所跡などを見て回った後、白仁田の晒し鉱跡を見た。母の実家の跡のすぐ近くである。祖母の死後、母の実家は解体され、屋敷跡には杉が植えられた。家に通じる道さえなくなっていたが、籔をかき分けてなんとか登っていくと、崩れかけた石垣と竃(かまど)や母屋から離れて作られていた五右衛門風呂などの跡から、かろうじてそこに家があったことが分かる。過疎がすすんだ現在の集落では、金が見つかる以前に戻って、老人と猿と猪が共存する静かな世界が広がっていた。