第2回 過ぎし日の回想(2) 〜ラサ-ル中学の頃〜
ラサ-ル中学に入学したのは1960年の4月である。受験勉強が今ほど厳しくない時代ではあったが、離島の徳之島から一人で受験した自分の名前がまさか合格発表者の中にあるとは、考えられもしないことであった。
後に、後輩達のおかげで全国に名を知られるようになった学校であるが、私たちラサ-ル中学5回生の頃は鹿児島の田舎の学校であった。6割以上は鹿児島市内からの通学で、県内の田舎出身が残りの大部分、県外からの入学者は稀であった。寮生は1学年30名余りであった。
さて、晴れてラサ-ル中学の授業、そして寮生活が始まった。それは私にとって、カルチャ-ショックの連続であった。国語の最初の授業で担当のH先生から「中学1年の教科書はやさしすぎるから使わない。明日から2年の教科書を持ってくるように」と言われて何という学校かと驚き、ついていけるのか不安になった。
その2年生の国語の教科書の最初は詩で島崎藤村の「椰子の実」とカ-ル・ブッセ作で上田敏の名訳「山のあなた」であったと記憶している。二つともロマン溢れる詩で、当時の私の気持ちを強く打つ何かがあった(皆さんもよくご存知だと思うが、この文章の最後に詩を載せる)。一方、数学の方もどんどん進んで、夏休み前には中学1年の教科書が全て終わってしまっていた。ブラザ-とよばれる修道士から、英語の発音の授業も始まっていたが、こちらは苦手で今にいたるまでの私の英語嫌いはこの頃から始まったのかもしれない。
親元を離れての寮生活も戸惑いながら始まっていた。学校の寮は西欧式で個室がなく、寝室は中学1年から3年まで全員100人分(上下2段のベッドが50箇)が並び、勉強は自習室で行った。といっても、入学した当時は中学寮の自習室は未完成で、寮と同じ敷地内にある学校の教室を各学年単位で使っていた。1年後に完成した自習室は寝室と同様、100人分の机がズラッと同じ方向に並んでいて、まるで大きな教室と変わりがなかった。朝は6時起床、夜は10時就寝で、授業が始まる前の午前6時15分から7時までと、夕食後の午後7時半から9時までは勉強の時間と決められていた(これが寮生の「義務」)。それ以外は自由時間で、娯楽室の「蓄音器」で音楽を聴くことができたし(今から考えると随分音は悪かったはずであるが、ラジオ以外を知らなかった私には流行歌を気軽に聞けることすらカルチャ-ショック。その頃の曲に「南国土佐を後にして」、「黄色いサクランボ」「黒い花びら」「北上夜曲」「パイナップル・プリンセス」などがある)、テレビ番組(当然白黒、「ス-パ-マン」や「ベン・ケ-シ-」など)を見ることもできたし、あるいは同級生たちとポ-カ-などのトランプ遊びをすることもできた。プライバシーはなかったが、田舎から出てきたばかりの中学生にとって、集団生活は結構楽しかった。
幸い、授業にはついていけた。徳之島の薄暗い自宅で1人だけで勉強していた時と違って、先生の話は納得できたし、わからないところは質問することができた。1年生の最初の中間試験で同級生165人中の中で一桁の成績を修めることができて、自信もついてきた。
試験が近づくと、就寝時間は10時で同じであるが、朝は5時から勉強可能というル-ルがあった。朝、暗いうちに起きて机に向かっていると、徐々に窓の外が明るくなっていく。現在は埋め立てられて、幅広い道路の向こう側は工業団地になっているが、当時は校庭から直接海岸で鹿児島湾に面していた。対岸には桜島があり、さらにその右側には大隈半島の山々が続いている。それらが、海岸の背の高い数本の松の向こう側に暗やみの中から次第にシルエットを浮かびあがらせ、そして徐々にその輪郭が輝き、次第に見馴れた色に変わっていく様は見飽きることがなかった。
静かなしじまに時折りボ-という船の汽笛が低く響くことがあった。あれは島からの定期船が入港する合図だろうか、あの船に乗れば島に帰れるのか、そんな思いにとらわれることもしばしばであった。
夏が近づくと、寮の周りの田圃からカエルの鳴き声がやかましいぐらいであった。目の前の海岸では同級生達と泳いで楽しむことができた。また、遠浅の海に孟宗竹を10本以上組んで作ってもらった筏に乗って遊んだこともある。漂っているクラゲを竹竿で突くのが楽しみであった。
そのうちに1年生の1学期が終わり、初めての夏休みがやってきた。寮の同級生や上級生は皆、三々五々自宅に帰っていった。ところが私は1人だけ、とり残されていた。帰れなかったのである。台風が近づき、唯一の足である奄美大島・徳之島向けの定期船が欠航していたから。昨日までうるさい位に賑わっていた寮は妙に深閑としていた。心細さを表に出さず、気丈にふるまっていたが、まだ12歳の夏の思い出である。
(参考)
山のあなた カ-ル・ブッセ作 上田敏訳
山のあなたの 空遠く
幸い住むと 人のいう
噫(ああ)われ人と尋(と)めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ
山のあなたに なお遠く
幸い住むと 人のいう
椰子の実 島崎藤村作
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
我もまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異境(いきょう)の涙
思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん
- 第1回 過ぎし日の回想(1) 徳之島の思い出
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