上を向いて歩こう 〜高校時代〜
ラサ-ル中学の寮には2年間いたが、3年生になって下宿した。プライバシ-が全くない寮の生活にそろそろ耐えられなくなってきたのである。鹿児島市内の伊敷というところにあった父の知り合いのYさんのところに下宿させてもらった。学校までは路面電車(現在はこの区間は廃止になっている)で片道1時間程かかるところで、決して通学に便利という訳ではなかった。しかし、おばさんが大変親切で家族の一員のように接していただいた。時には寮の友人達がわざわざ遊びに来てくれたりして楽しかった。その中でも忘れられないのが、I君3人で街路沿いの樹木の実をちぎって投げつけて遊んだことである。その木が実は「はぜ」であったので3人ともその後ひどい皮膚炎が出て病院に行かなければならかった。因みにこの頃の電車賃は市内が13円均一であったが、ラサ-ル中学のあった谷山駅まで乗ると市外運賃3円がプラスされた。ラサ-ル学園があった場所はその頃は鹿児島市でなく、谷山市であったから。
Yさんの家に9か月ほど下宿させてもらったが、Yさんの家族の都合で、3か月ほどは近くの親戚のところにやっかいになった。3か月とは言え、狭い家にお邪魔することになり、大変ご迷惑をかけた。
高校生になったときに谷山市内の下宿に移った。学校から歩いて10分ほどのところで、周りは田圃であった。下宿人は5名、いずれもラサ-ル生であった。もとは農家であったが、使われなくなった馬小屋を改装して1階はそのまま物置にして、2階に3部屋、下宿人が住めるようにしてあった。その他に別の物置を改装して2部屋作って、そこにも下宿人が住んでいた。私は馬小屋の2階の一室を借りていた。1階は物置であるから、冬は下から冷気が噴きあげてくる。いくら南国の鹿児島といっても冬は寒い。使い捨てカイロなどない時代である。足許に置く「豆炭アンカ」が必需品であった。
こう書くと、専門下宿屋のようであるが、おばさんは息子のPTAの役員など多忙のなか、下宿人のお世話をするのが好きでたまらない、そんな方であった。朝食と夕食の他、お弁当も作っていただいていたが、下宿人5人に自分の息子さん(私より年齢が1つ下)と、会社勤めのお嬢さんまで、毎日7箇のお弁当は結構大変な負担だったのではないだろうか。また、朝食には必ず生卵が1箇ついていたが、私は卵があまり好きでなく残すと、卵焼きにしたり、目玉焼きにしたり、いろいろ工夫して出していただいていた。
試験期間が終わり、下宿人5人がそろって目の前の田圃で草野球をしていたら、植えたレンゲ草が荒らされると田圃の持ち主から怒られた。また、夕食後に学校の体育館まで行って寮生とバスケットボ-ルの試合をして勝ったこともある。トランプをして遊ぶことも多かったが、つい時間を忘れて遅くまで大声で遊んでいて、ご近所からうるさいと、下宿のおじさんを通して文句を言われたりすることもあった。
私は本を読むことが好きで、近くに住む友人のY君を訪ねてはカッパ文庫の本を借りてきたり、隣の下宿人S(1年後輩)が持っていた世界の歴史シリ-ズ全15巻(?)を読破したり(Sは多分ほとんど読んでいないはず)、それでも足りなくて町の貸本屋で小説(松本清張、石坂洋次郎、梶山季之、山手樹一郎など)を借りて読みふけったりしていた。なお、石坂洋次郎の小説、「若い人」「青い山脈」「陽のあたる坂道」などは、その頃人気絶頂であった吉永小百合や石原裕次郎などで映画化された。それらの映画が上映されたときは、谷山市内の映画館にこっそりと見に行った。と言っても、館内には同級生、先輩、後輩がたくさんいたので、どうも黙認されていたようである。
学校までの田圃道の通学路からは麦畑(夏は田圃)の向こうに桜島がよく見えた。私生活などで落ちこんだ時は、音程が外れていることを気にせずに(昔から音痴!)歌いながら歩いた。よく歌ったのは、その頃流行っていた「上を向いて歩こう」である。少しもの悲しい歌詞とメロディがなんとなく胸に響いたからであろう。今でも「上を向いて歩こう」の曲がテレビなどで流されると、高校3年間の下宿生活、そして桜島がよく見えた通学路を思いださずにはいられない。
現在、谷山市は鹿児島市と合併して、そのベッドタウンとなり、田圃は住宅街に変貌した。3年ほど前にラサ-ル高校を訪ねた折りに、昔下宿していたあたりに行ってみたが、家も道路もあまりにも変わっていて、結局分からずに帰ってきた。下宿でお世話をしていただいたおじさんもおばさんもその後亡くなられたという連絡をいただいた。ただ、その時の下宿仲間は今でも時々連絡を取りあっている。