久留米大学医学部 放射線医学教室

早渕名誉教授の思い出

第5回 仏青のこと

昭和43年(1968年)に九州大学医学部に進学した。現在で言えば医学部3年生であるが、当時は最初の2年間は医学進学課程であり、医学部ではなかった。ついでに言えば、校舎も他のすべての学部の教養課程と同じく六本松にあり、馬出の医学部および付属病院とは路面電車で1時間程も離れていた。医学部進学と同時に九州大学仏教青年会(以下仏青)に入った。仏青は明治40年に発会しているので、当時すでに60年以上の歴史を持っていたことになる。

会の活動もさることながら、仏青に入れば寮に入れて、安く生活できることが主な動機であった。仏教に対する興味は正直に言ってそれほど高くなく、申し訳ないとは思うが、その後も現在に至るまで同様である。とは言っても、私は中学・高校を鹿児島市(当時は谷山市)のカトリックの学校で過ごしていたが、逆にキリスト教に対する反撥心が強く(キリスト教の「選民思想」やカトリックの中南米などでの虐殺を伴う征服の歴史などから)、仏教には少なくない興味を持っていた。特に仏青の創立時からの目的である「一宗一派に偏せず、広く仏教の妙理を会得し、心身の修養をなし、併せて社会事業に貢献する」には強く惹かれていた。

当時の会の学生の活動は夜間診療の手伝いと僻地診療の企画および実行(医学部)、無料法律相談(法学部)、日曜学校などであった。会館(寮生の個室の他に、診療所や法律相談の部屋、「勤行」を行う部屋などが併設)は天神のすぐ近くの渡辺通り4丁目にあった。周りの大きなビル群が立ち並ぶ中に、取り残されたような木造2階建ての建物(写真左移転前の九州大学仏教青年会館 15年にこの地に建設された会館は九州大学病院の取り壊された建物を移築されて建設された、という話であったので、やむをえなかったのであろう。しかし、個室と、麦飯ではあったが、お弁当を含む3食が確保されていたのは貧乏学生には大変ありがたかった。当時の寮費は一人2000円程度ではなかっただろうか。乏しい予算の中で食事を作っていただいていた寮母さんには頭が下がる。また、古くて汚い点を除けば、会館の立地条件は最高であった。近くには夜になると屋台が建ち並び、天神はもちろん中州にも気軽に歩ける距離で、遊びに行くにはこれ以上の場所はなかった。無料健康相談(午後6時半-8時?)を兼ねた夜間診療の手伝いが終わってから、先輩や同僚、また当日担当の医師(といっても、大学卒業間もない仏青の先輩)や当番の看護学校(後に医療技術短大に昇格、現在は医療技術学科)の学生さんなどもまじえて、中州まで足をのばすこともあった。看護学校の寮は門限が10時(?)であったが、その時間を過ぎてしまって高い塀をよじ登って寮に帰る学生さんもいたとか。また、覚え立ての麻雀に入れてもらって、終わった後メンバーで行く屋台のラ-メンの味は格別であった。

私が医学部2年生のときに、老朽化した渡辺通りの会館敷地を売却して、東区名島の九電のグランド跡地の一角に移転することになった。売却先はトヨタで、現在は会議場にもなる「SKALAESPACIO」などがあるFTビルになっている。真新しいコンクリ-ト造りの名島の会館が完成して、移転したのは昭和44年の8月であった。おりしも学園紛争の真最中で、九州大学の医学部も4月からスト決行中で時間もたっぷりあり、ゆっくり引っ越しの準備をすることができた。名島のこのあたりはグランド跡地ということもあって、まだ家も少なく会館と寮を結ぶ廊下の屋上で、寮生が遅くまで酒を飲みながら大声で歌っても文句がくることはなかった。当時の曲で私が今でも覚えているのは、「夜明けのスキャット」「湊町ブル-ス」「恋の季節」「黒猫のタンゴ」「禁じられた恋」などの日本の歌や、「コンドルは飛んで行く」などである。なお、九大の学園紛争は全学的であったが、医学部の場合は安田講堂の攻防戦で有名な東大紛争から1年後、インタ-ン闘争や古い体制のままの医局講座制の解体などをスロ-ガンに掲げていた。しかし正直なところ、私たち学生の大部分はよくわからないままストに加わっていた。

そして、翌年の年明け早々、8カ月におよぶストは中途半端なまま解除され、大学の授業が再びはじまった。その年の医学部卒業式は10月に延期になった位で、授業のカリキュラムがびっしり詰まっていて、土曜日も午後まで授業があった。その中で、毎年恒例の巡回診療(正確には僻地検診)の準備を行わなければならない。私は診療部長の役職で、巡回診療実施の責任者であったので、時には学校を休んで寄附をいただきに会社回りをしたり、その年巡回診療を行う予定の日之影町(天孫降臨で有名な高千穂町の隣)の役場や宮崎県庁まで打ち合わせに行ったりしていた。授業カリキュラムの関係で夏休みも3週間しかなかった(通常は8週間程度)ので、はじめの1週間で出発の最後の準備、次の週が日之影町の山奥で実際の検診、そして最後の週が後片付けで終わった。医学部自動車部の部員や、衛生検査技師学校(現在は医療技術学科)の学生さん達の応援も得て都合50人ほどの大所帯が、仏青出身の先輩医師の車など十数台に分乗して福岡から出発した。まだ高速道路網がごく一部しか整備されていなかった時代で、福岡から筑豊を経由して行橋に出て、十号線を延岡まで南下、そこから五ヶ瀬川を遡って日之影町まで行くコ-スで、まる1日がかりであった。現地では日之影中学校の体育館をお借りして寝泊まりした。そこを本拠地にして5日間、毎日山間にある別々の地区まで片道1時間前後をかけて往復した。検診場所としては主に夏休み中の地区の小学校をお借りした。私達学生はそれぞれの教室に分かれて、血液検査、レントゲン写真の撮影と現像(真夏の暑い時に暗幕の中での現像は特につらいものがあった)、心電図検査、検尿や検便などを行った。その他、検診の受付や全体の進行も担当した。診察や検査結果の説明は仏青の先輩医師にお願いしたが、皆さんには交代で夏休みをとって来てもらった。高血圧や腰痛は今でも多い疾患であるが、現在と異なるのは寄生虫の多さで、およそ二人に一人は何らかの寄生虫の卵が便中に見られた。鮎を生で食べるためか、特に多かったのが横川吸虫の卵であった。たいしたことができる訳でもないのに、暑い中を毎日たくさんの方に(中にはもっと山奥から時間をかけて)検診にきていただき、私たちもやり甲斐があり、うれしかった。幸い、日之影町の担当者をはじめ、皆さんのおかげで無事その年の巡回診療を終えることができた。

寮にいる間は、日曜学校の活動で子どもたちと楽しく遊んだ。3年の時は日曜学校の校長先生を務め、春休みには看護学校の学生さんたちと人形劇であちこちの保育施設に行った。人形は手作りした。私は「カチカチ山」のたぬきの役を演じた。かわいいうさぎさんの好演のおかげで、なかなか人気があったと思っている。

週2回朝に行う「勤行」の他、春と秋の年2回1週間続けて行う「座禅会」もあり、早朝から曹洞宗のお寺に出かけた。1時間程、坐禅を組んで精神の修養に努めようとしたが、そこは凡人。眠くなったり、つい妄想にひたっていたりすると、後ろを回っている先輩に警策(きょうさく)という扁平な板で肩を叩かれる。静寂な座禅の部屋にピシーという音が響くと、叩かれた本人だけでなく、周りの人も思わず緊張した。座禅が終わった後の朝食はとてもおいしかったが、授業中は眠くてたまらず、その一週間はほとんどの講義で何を聴いていたのかわからない位であった。本人の心懸けがいたって悪く、今にいたるまで仏教の冥利を少しでも会得できたとは、とても言えないのが残念である。

卒業にあたっては、学生時代にお世話になった松浦教授をはじめ仏青の先輩が数多くおられた放射線科を選んだのは自然の流れであったかもしれない。

あれから40年以上がたった。日本は高度成長をとげ、社会環境が大きく変わった。無料の健康相談を兼ねた夜間診療や僻地検診は必要がなくなった。その設備は現在、九大仏青診療所に衣替えされている(写真右 現在の九州大学仏教青年会館)。そして仏青の寮には医学部の学生はいなくなった。寂しい気もするが、時代の流れなのであろうか。 上記の文は九州大学仏教青年会の会報に寄稿したものに加筆修正を加えたものである。

※写真はいずれも九州大学仏教青年会100周年記念誌より

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