第1回 過ぎし日の回想(1) 徳之島の思い出
皆さんは徳之島についてどんなことをご存知であろうか?「宇宙ロケットの発射基地があるところでしょう」「いえ、それは種子島です」「でも近くでしょう」「いえ、種子島は屋久島と並んで、九州本土のすぐ南に位置し、奄美大島の南にある徳之島とは何百キロも離れているのです」。徳州会病院グル-プ代表の徳田虎雄の出身地、かつてギネスブックに世界一の長寿と記載されていた泉重千代さんが住んでいたところ、中には選挙のたびに大騒動になる伊仙町があるところ、などは正解です。
私は小学校6年生の時に1年間だけ、その島の学校に通った。その時の貴重だが、ややほろ苦い経験を書いてみたい。
高校の教師をしていた父の転勤で1959年の春、それまで住んでいた垂水市(鹿児島湾をはさんで鹿児島市の対岸)から400km以上離れた徳之島に引っ越すことになった。垂水から鹿児島に出て、さらに鹿児島市内の港からその頃唯一の足であった貨客船に乗って翌夕5時、やっと徳之島の亀徳港にたどり着いた。気温、海の色、植物、全て見慣れたものとは変わっている。24時間を超す船旅で、なんか地の果てまで来たような大変なところ、と思ったものである。
徳之島は前述のように奄美大島の南で、さらにその南には沖永良部島、与論島が続く。与論島の南はもう琉球諸島である。徳之島の面積約250Km2、3つの町や村からなり、当時の人口は3町村併せて約5万人であった(現在は約2万5千人)。私達の家族が住んだところは亀津2という島の中心の町の砂糖きびの畑が続く小高い丘の中腹にあった。家を出て5分程も下っていくと、ガジュマルの木々やソテツが生い茂る海岸に出る。さんご礁が沖合1km程も続き、その先はエメラルド色の太平洋で、その境界部にはいつも白い波が荒だっていた。引き潮になると派手な色模様のたくさんの種類の熱帯魚が珊瑚礁の丸いくぼみに取り残されて、窮屈そうに泳いでいるのを間近で見ることができた。家からは朝日が太平洋のかなたの水平線から昇ってくるのを毎日でもながめることができた。町では闘牛大会が年何回も開かれ、島の人々は「ワイドワイド」と囃したてながら熱狂していた。夕日の名所である犬田布岬は、船艦大和が太平洋戦争末期に沖縄出撃の途中にその沖合に沈んだことで有名で、慰霊碑が立っている。私が住んでいた亀津からは約10km、島の反対側に位置している。
ところで鹿児島弁とはまったく異なる独得な島の方言が私はよくわからないで、友人も少なく苦労していた。1959年と言えば、池田勇人が首相に就任して高度成長時代が幕開けした年のさらに前年である。島はまだ終戦直後のような状態で、夜だけしか満足に明るくならない電気の生活にもなかなか馴染めなかった。日本全土に普及しはじめていたテレビが見られない。力道山も相撲もプロ野球も見られない。亜熱帯の蒸し暑い気候なのに、エアコンは役場を含めて島のどこにもなく、また考えられもしなかった。電気冷蔵庫ももちろんない。咬まれたら死んでしまう猛毒を持つハブがうようよしている(と聞かされていた)ので、気軽に外で遊ぶ訳にもいかない。新聞は船便で鹿児島から送られてくるので(徳之島空港の開業は3年程後の1962年)、通常は前日の朝刊が翌日の夕方に配達されていた。台風が近づいて船便が止まると、新聞や郵便も止まってしまうだけでなく、生鮮食料品が商店から消えてしまう。沖縄や奄美諸島のあたりでは、高気圧に足留めされた台風は速度が遅く、3日や4日、場合によっては1週間も強い雨風が吹き荒れることも珍しくなかった。やっと台風が去って、船便が再開されると、新聞も郵便も数日分が一度に配達され、豚肉とタマネギだけだった食事は、一転生鮮食料品を中心にした食事に変わる。
島に2軒あった映画館はいずれも芝居小屋のような粗末な建物ではあったが、時に家族や子供向けの映画も上映され、数少ない娯楽を提供していた。「さざえさん」や「次郎物語」などを見た記憶がある。
ところで、私は独特の言葉や不十分な電気の生活だけでなく、島の子供達からうける差別意識にも嫌気がさしていた。島の人々(大人がそうだから、子供もそういう態度になる)は移住者を容易に受け入れてくれない(と私は感じていた)。本土(或いは内地と言う言葉がある)からの移住者は「やまともん(大和者?)」、あるいは「やまとんちゅう」と言われていた。
島の人にも当然言い分はあったであろう。江戸時代から島は薩摩藩に強制的にサトウキビの栽培を命じられていた。秘密厳守のため、いろいろな生活制限の上で。サトウキビから作られる砂糖は、当時の日本国内をほぼ独占して、薩摩藩の財政の大きな柱であった。サトウキビのおかげで薩摩藩は幕末、藩政改革に成功し、討幕にも大きな力を発揮できた。しかし、それは奄美大島や徳之島などの住民の大きな犠牲の上であった。島の役人は薩摩藩から来ていた。「やまともん」は憎しみの対象であって当然である。
さらに、徳之島や奄美大島は1953年12月になって、敗戦以来の連合軍の占領下からやっと開放された。太平洋戦争後の日本の主権回復が1952年4月であったから1年半も遅れたことになる。沖縄返還はさらにそれから20年後の1972年であり、米軍基地の問題解決は現在も先送りされたままであるのに比べると好運であったと言えるかもしれないが。当然のことながら、当時の島は貧しく、生活は厳しかった。よそ者、特に鹿児島からきた移住者が嫌われたのはそんなこともあったかもしれない。でも、当時の小学生にわかるはずがない事情であった。
そんな時に、島の神童と言われていた同級生がラサ-ル中学を受験するということを聞いた。ラサ-ルって何、それが最初であった。詳しく聞くと、それまで島から何人かがラサ-ル中学や高校を受験していたが、合格者は一人もいなかったらしい。それなら、自分も挑戦だけはしてみるか、そんな気持ちであった。とは言え、塾もなければ、家庭教師について勉強できる訳もない。二部屋だけの狭い教員宿舎では弟や妹たちがすでに寝ていた。廊下の端に置かれた小さな机に座って、薄暗い電気スタンドの下、過去の試験問題を取りよせて、島の唯一の書店で選びようもなく買った本を参考にして、答えを考えるだけが精一杯できることであった。
- 第1回 過ぎし日の回想(1) 徳之島の思い出
- 第2回 過ぎし日の回想(2) ラサール中学のころ
- 第3回 上を向いて歩こう 〜高校時代〜
- 第4回 山ヶ野:西国三大遊郭
- 第5回 仏青のこと
- 第6回 ワンダーフォーゲル部
- 第7回 ホジキンリンパ腫の患者さんのこと